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ふくろう通信・・・8号 |
2001.9.3 配信 |
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ずいぶんご無沙汰しました。 みなさん今年の夏は如何お過ごしでしたか。 この夏は郷土の作家更科源蔵の著作を読み返しました。いわゆる「原野シリ−ズ」とよばれる五冊です。出版された順に「父母の原野」「おさない原野」「少年たちの原野」「移住者の原野」「青春の原野」です。最後の一冊以外は偕成社発行です。 更科源蔵は「新潮日本文学辞典」の伊藤整によると 更科源蔵(1904−85) 詩集に「種薯」(昭和5年)、「無明」(昭和27年)、「更科源蔵詩集」(昭和36年)のほか二冊がある。高村光太郎、尾崎喜八の影響を受ける。北海道の自然、郷土史、アイヌなどに関心をもち、それぞれの分野の著書は三十数冊に及ぶ。のち生まれ故郷の弟子屈より札幌に移った。北海道の文学、文化などの指導者である。 私は数年前、膨大な更科資料(草稿、蔵書、書簡類、遺品等)の散逸をおそれた、札幌の弘南堂書店高木庄治さんのお世話を得て、町内外の賛同で弟子屈町が入手する、ささやかな手伝いをさせていただきました。 2003年は弟子屈町開基100年に当たり、町では記念に仮称更科文学賞を設定することになりました。詳細はこれから識者により決められますが、賞は「種薯」という面白い案もあります。 源蔵さんは明治36年に弟子屈の熊牛原野で生まれました。戸籍上は37年ですが吹雪と積雪で届け出が遅れたためです。現在、旧住居跡には自然石の「原野」碑が建っています。 この五冊の書物のなかで語られていることは、明治初年に北海道開拓のため、新潟から渡ってきた一家の筆舌に尽くしがたい生活苦と自然との闘い、アイヌの人たちとの暖かい交流、困難に立ち向かう家族の団結、動植物にそそがれる旺盛な好奇心と慈愛の心です。 昭和一桁生まれの私にとって、決して他人事ではない情景がつぎつぎと現れるのです。 源蔵さんを語る上で忘れてはならないのは「蝦夷征伐事件」です。 若き源蔵さんに私淑した、やはり郷土の大先達森川勇作さんの著書「原野の中の更科源蔵」から孫引きして、この事件のあらましを紹介します。 昭和5年10月下旬に弟子屈村内の全教員が出席しての教育研究会があった。釧路国支庁に教育課があり、釧路管内の教育一切の権限を視学が掌握していた。当番校は尾札部小学校(現屈斜路)で、Kという先生の歴史の研究授業で題材は「坂上田村麻呂」の蝦夷征伐を教材としてあげた。 授業に対する質疑応答。 一、蝦夷征伐とありますが、蝦夷とアイヌと関係ありますか 叛いた具体例を御教示下さい。私は学校に帰り、子供たちに「お前たちの祖先は東海道、東山道、北陸道から陸奥、出羽へそして北海道に追いたられた」と、どうしても教えられません。しかも本日の教材は1200年の昔のことで、ユ−ラシア大陸の中国方面、またはシベリアから樺太、カムチャッカを通り本道へきた種族もあります。蝦夷とアイヌは同じでしょうか。 源蔵先生は視学に迫った。居並ぶ出席者は胸を打たれた。只ひとりN視学の苦虫をかみつぶすような顔があった。視学は「あれは事実だ。事実は事実として仕方がないじゃないか。それ以外考えることはない」とはねつけた。 これは今年米寿を迎える母の、弟子屈小学校での恩師錦織俊介先生の回顧談。 上述書より この日を境にして源蔵先生に対する視学の評価ははっきりした。更科を思想的偏向者であり、教員として不適任者とし、警察に連絡して内偵が開始された。源蔵先生はその雲行きも知らず、勤務を続けていて、やがて解雇する根拠が不明確のまま解雇された。 近い将来、町内の有志が収集した開拓の昔の生活道具や農機具と更科資料を中心とした開拓文学館が弟子屈にできるでしょう。 戦中戦後を別にしても、たった六、七十年前まで文字通り、その日その日の食料を得ることが困難であった我々の生活のことを多くの若い人に知ってもらいたいのです。 人類の数万年の歴史の上で食料が容易に手に入るようになり、餓死の恐怖から逃れられるようになったのはつい最近のことであり、この数十年の進歩は、まさにエポック・メイキングと言えるのではないでしょうか。勿論、世界的規模でみれば、まだまだ飢えに苦しむ多くの人がいるのを承知していますが。 「移住者の原野」だけは、著者の生まれる前の多少フィクションめいたところがありますが、他は開拓者のリアルな生活と著者の繊細な感情が、生き生きと描かれています。機会があればぜひ読んでみて下さい。 辻谷 守 |