ふくろう通信・・・6号

2001.3.16 配信




 今年は寒さ厳しく雪も多く、春の訪れが待たれるこのころです。

 先週から釧路通いが続いています。その理由は・・・。

 弟子屈町は戦前は御料林と呼ばれる天皇の私有地でした。小生の子供の頃は、市街地の中心部の一角に巨木に囲まれた営林署があり、玄関の上には燦然と大きな菊の御紋章が掲げられていました。署長は村長よりエライ人でした。四方拝、紀元節、天長節、地久節にはモ−ルの付いたいかめしい服に短剣を腰に下げ厳然と臨席したのを思い出します。

 明治になって国が北海道を実質的に支配したときに、将来開拓に使える土地を縦横十文字に参百間(540メートル)間隔で幅六間(11メートル)の道路敷地を確保しました。実際の地形や土地の高低、河川の有無を無視して図上で線を引いたので、その後実際の道路が造られず用地だけ残っているところが至る所にあります。勿論将来道路として使用される予定のないところは、隣接の土地の所有者に払い下げ処分にもなります。

 当社の温泉開発をした隣接にもこの種の土地があり、土地利用に必要なので国有財産を管理している釧路の財務事務所に払い下げの相談に行きました。対応してくれたのはキャリアらしき女性で、あまり乗り気ではない様子でしたが検討してみましょうとのことで帰ってきました。数日して電話があり、「当所ではどうにもなりません」とのことで、理由は所有者が宮内大臣とのこと。あわてて法務局で調べると所有者の欄にポツリと宮内大臣と書いてあります。

 周辺の土地は昭和の初期に弟子屈村を経由して民間に払い下げられているのですが、この道路予定地だけは残ってしまったようです。終戦後、天皇の財産は農林省か大蔵省に移管替えになったのですが、きっと移管漏れが出来たのです。

 小生は、過去に宮内大臣ということはすなわち国有地なので、なんとかして欲しいと再度お願いしたのですが、自分の管轄でないの一点張りで困り果て東京の宮内庁に電話すると、「宮内庁の土地は北海道には一切ないので、対応できません」とのこと。

 困ってこんどは、行政監察に相談しました。担当者は張り切っていろいろ当たってくれたのですが、結局はお手上げです。小生が尋ねた通りの返事を得たにすぎません。誰のものでもないとなれば、そこの立木を伐採し土砂を削り建物をたてても抗議する人はないのですか、といささか馬鹿な質問をすると少し困った顔はしましたが、絶対ダメとは言いませんでした。

 持ち主不明といえば、こんなこともありました。今から20年くらい前に、小生の知り合いの名古屋の人の分譲した山林で見事な立木が盗伐されました。作業中の様子を見て近所の農家が知らせてくれたのです。慌てて名古屋に知らせると、直ぐ警察に届けてくださいと言われ、警察に行きました。警察官曰く、誰の土地のどの様な木が切られたのか、被害届をだしてくださいとのこと。数百にも分割され区画の境界も定かでない土地の一本づつの木を調査して被害届をもしだすとすれば、その経費だけで数百万円になります。結局断念して盗人はゆうゆうと木をトラックで搬出しました。

 閑話休題

 町役場の固定資産台帳で調べてもらうと、宮内大臣の土地がこのほかにも沢山あり、処理に困っているとのこと。窓口のキャリアの女性に平然と玄関払いを受けて、小生は考えました。せっかく役人になり釧路くんだりまできたのだから、余人の手がけない変わった仕事の一つくらいしてみたらどうだろう。それが人間の生きがいでなければ、なんのための人生か。しかし現実には圧倒的に少数意見なのでしょう。

 この問題、なにか結末が付いたらまた報告します。

 小生、しがない仕事を続けていますが、時として自分が掘った温泉が未来永劫に続き、数知れない人々がその恩恵を受ける幸福のきっかけになったと夢想することで自己満足に浸ることがあります。少し高慢かも知れません。

 小生が中学生の頃、汽車通いをしていて、釧網本線の磯分内を通過した時に、隣に座っていた労働者が友人に窓外の日本甜菜糖(てんさいとう/甜菜:砂糖大根:グラニュー糖の原料)工場の大きな煙突を指して、あれは俺が作ったと自慢したことを思い出しました。みんなそれを生き甲斐にしているのです。

辻谷 守